学者と知識人


このネタは、ちゃんと考えてみようと思って暖めてたんだけど、最近ちょっと忙しくて、ちゃんと考える時間がないので、これまで考えていたことを忘れないうちにメモっておく。


僕が社会学を学んでいた時、ウェーバーの唱えた価値判断排除の原則を、常に頭の片隅に入れていた。特に、政治的倫理的な面での価値判断についてだ。社会学のような社会科学は、自然科学とは違って、どうしても政治的、倫理的、宗教的な価値判断が入り込んでしまって、事実認識に影響を与えてしまう。政治的な論争は神々の闘争でしかなく、リベラルかコンサバティブかどちらが優れた政治思想か、とか、キリスト教イスラム教はどちらが優れた宗教か、なんて言うことは、個人の主観的な価値判断で決着を付けるしかない。客観的に、どちらが優れているなんてことは絶対に言えない。真実を追究する社会科学を学ぶには、こういった主観的価値判断をできるだけ排除して、政治活動家や宗教活動家ではなく、社会科学の「専門家」として、学ぶべきだという風に僕は考えていた。まあ、主観を排除することが本当にできるのか、っていう根本的な疑念はあるんだけど、できるだけ政治かぶれや、宗教かぶれにならないように気をつけて社会学を学んでいた。


ウェーバーが亡くなった1920年から70年以上後に、サイードが唱えた知識人論とウェーバーの議論は奇妙なすれ違いをしている。サイードは専門家という閉塞的な状況にとどまらず、権力を迎合せず、常に批判的であれと言っている。サイードの主張は、左翼以外は知識人とは呼べないっていう風にも見えてしまうんだけど、そこはおいといて。特に、おもしろい点は現代の専門主義に批判的である点だ。その道の権威になることを目的とせず、専門外からの批判も真摯に受け止め、常に自分の信じる思想を主張していくことが知識人たる所以だと言う。


別にウェーバーとサイードが完全に対立しているわけではない。ウェーバーは教室内では政治的なことを主張すべきではなく、科学的真理を追究すべきと言っているだけで、実際自分も政治家として活動したりしていた。サイードも教室内で左翼活動をしていたわけではない。ただ、主張の力点が異なるだけだ。ウェーバーは学者として「専門性」を追究すべきだと語り、サイードは知識人として、「専門主義」に対抗すべきだと語る。時間と空間のコンテキストの違いによる影響は大きいけど、両者の違いは結構核心的なものだと思う。


ギデンズはベックのリスク社会論などを援用して、現代社会はあまりにも専門分化され、そのブラックボックス化(脱埋め込み)が、現代人の存在論的不安感に繋がっていると説いている。例えば、飛行機が飛ぶ仕組みなんて誰も知らないけど、みんな飛行機を「信用」して普通に乗っている。でも、一度「信用」が崩れると、社会的な不安が非常に大きくなる。さらに現代の高度なメディアが不安感を増幅させる。BSEの問題とかは、牛肉の社会的な信用性が失墜して起こった社会的不安感増幅の問題で、非常にわかりやすい例となっている。


社会科学も同様で、あまりにも専門分化されすぎていて、少しでも専門から外れてしまうと、話が通じないっていう状況になってきている。と、まではいかないのかな?でも、昔は社会学者なら資本論くらいみんな読んでいた状況だったけど、今は読んでない社会学者もいるらしい。つまり、社会学者なら絶対に学ばなくちゃならない「基盤」みたいなものがなくなってきている。それだけならいいんだけど、サイードが言うように、専門家以外が口出しすることが難しくなってきてしまっている。


でも、サイードの知識人論はどうなんだろう。専門以外の分野に、口出すときも、やはり「専門家」っていうレッテルはつきまとってしまうわけで、権威を利用して、自分の身勝手な主張を押しつけることに繋がりかねないだろうか。たとえば、「国家の品格」のあの人だって、数学者であり知識人であるわけで、その人が無茶苦茶な主張したって、それは一般の人にとってみれば、専門家の科学的な意見と捉えられるんじゃないだろうか。結局、テレビで何らかの専門家が自分の専門外のことについて語ることは、専門家っていう権威を利用し自分の主張を押しつけているだけだ。特に大きなメディアを利用するときは、学者なら学者らしく、自分の専門外については禁欲的であるべきだと思う。知らないことは知らないと認識することも重要なんじゃないのかな。ウェーバーが現代に生きていたら、何て言うんだろうか。