江戸、東京、想像力

散歩をするのが好きだ。
ただなんとなくぶらぶら歩くのが好きなのだ。
たいてい2、3時間くらい歩き続ける。
夜中の2時、3時くらいでも平気に歩き続ける。
今日は雨降っていたのに、2時間くらい歩き続けた。

散歩自体はもうだいぶ前からしていることなんだけど、
新たな散歩の楽しみ方を見つけた。
江戸時代の東京の地図を参照しながら歩くことだ。
地図帳片手に歩くのはかなり恥ずかしいので、
行くところの江戸時代の地図を記憶して、散歩し、
帰ってから、歩いたところを地図で見るという作業をする。
かなり楽しい。

なんでこんなことをしてるかというと、
単純にアースダイバーに影響されたからだ。



中沢 新一
アースダイバー

中沢は縄文地図を持って、東京を「ダイブ」するのだが、
そこで色々と東京を再発見する。
ま、ほとんどは胡散臭いものなんだが、
その胡散臭さがまた面白かったりする。

この本を読んで、以前読んだ陣内 秀信の 東京の空間人類学を思い出した。
陣内は東京の空間は江戸時代から本質的に大きく変わっていないと主張する。
東京の空間は明治維新関東大震災東京大空襲、高度経済成長など、
空間の認識論的な大きな断絶が何度もあったにも関わらず、
江戸時代から脈々と受け継がれている。
江戸時代の地図と、現在の地図を見比べてみると、
その同一性に驚く。
同じ土地なんだから、同じような地図なのは本来当たり前なんだけど、
同じということに驚いてしまうのが不思議だ。
それほど、認識論的な断絶が大きかったんだと思う。
もしくは、「江戸」と「東京」は違うものだという風に教えてこられたからかもしれない。

江戸時代の地図を記憶して、散歩すれば江戸の町並みが見えてくる。
そうであれば、いいのだが、中々見えてこない。
理由は簡単。東京はあまりにも騒々しい。
音だけでなく、風景も騒々しい。
こういう時、大活躍するのが、iPodだ。
iPodを使い、大音量で音楽を聴きながら歩く。(ほんとはちょっと危険だが)
そうすることで東京の「今」を消し去り、東京という空間と僕の感情を直接つなげる。
そうすると江戸時代の東京が見えてくる。
というか、感じる。
ゲニウス・ロキを呼び覚ますのだ。
この街道を越えたら、明らかに違う空間になるとか、
ここは昔、林道だったんじゃないかとか、
車の流れが水の流れに見えたり、
色々感じることができる。
もちろん単なる想像で、胡散臭さ満載なんだが、
帰って地図を見直したら、あながち間違っていない

東京の空間はポストモダンな空間で、ハイパーリアリティ満載だ。
そこに本物はない。すべて「コピーのコピー」だ。
あるのは空虚で虚飾だらけの物語のみ。
機能性、効率性という「大きな物語」も消えかかっている。
いや、「大きな物語」は確実に残っているが、
うまい具合に不可視な存在になっている。
ポストモダンの虚飾が、大きな物語を目立たなくさせ、
大きな物語の空間を通らなくてもいいように、交通が整備され、
大きな物語さえも、過去のファンタジーにされている。

しかし、こうした見方は東京の上辺だけを見た見方だ。
東京の街はただ見るだけではポストモダンの魔術に騙されてしまう。
想像力を膨らませ、感じるのだ。
そうすれば、江戸時代から一続きの「江戸=東京」を見ることができる。
東京の歴史を感じることができる。
ラディカルな都市空間「東京」が実は江戸時代からちっとも変わっていない
ということがわかる。
東京の街は不思議だ。