公的領域と私的領域の境界

今、非常に悩んでいることがある。
しかし、絶対にブログに書くことはできない。
こんな誰も読んでいなくて、僕の正体がわかるわけがないほどの情報しか提供していなくてもだ。

客観的に考えると、たぶん悩みはごく一般的すぎるくらい一般的で、些細すぎるくらい些細なものだ。
でも書くことは出きない。
正確には、自分の考えを文字化することに対して異常なまでの嫌悪感があるのだ。

この話題は僕の私的領域に当たるものなんだと思う。
つまり自分の存在理由=アイデンティティと深く関わることだ。
言い換えると、コンプレックスなんだと思う。

たぶんこういうことは誰にでもある問題なんだと思う。
でも、僕の場合は変なところにえらい高い壁があるのだ。
多くの人に対して話すことができる「公的な領域」と
自分の中だけに取っておきたい「私的な領域」の境が
人と違うところにあり、しかも私的領域を取り囲む「壁」が異様に高いのだ。
僕の私的領域は今悩んでいることだけではなく
いたるところに存在する。

このことはいつも大きな問題を引き起こしてきた。
周りで盛り上がっている話題についていけない。
正確には参加する勇気がない。
よって孤立する。
孤立する方が心地いいのだ。
別に友達がいなかったわけではない。
集団内でいつも強い孤独を感じていたのだ。

これはいつから始まったんだろう。
おそらく自我の目覚めとともにはじまって
顕在化したのは小学校4,5年生くらいのころだろう。

ハンナ・アーレントによると、近代になり公的空間が私的空間に取って代われてきているという。
もちろん日本では公的空間の意味合いが欧米と大きく異なる。
しかし、近代的な私的空間が拡大してきていることは欧米と同様だ。

ポストモダニティ(あるいはハイモダニティ)の時代に入り、
私的空間の拡大はさらに進んでいる。
現代では私的空間こそが公的な空間であり、
私的な部分は公的な空間での記号のみとなっている。

大塚英志は面白いことを言っている。
戦後すぐくらいの日本人は自分のアイデンティティの基礎を思想においていた。
マルクスなんて理解していなくても、マルクス的なるものをアイデンティティ確立の基礎としていた。
しかし、現代は基礎となるべき思想が存在しない。
ゆえにアイデンティティの基礎となるものは「名前」や「住所」、「電話番号」、「メアド」など表面的な記号となってしまう。
そこで個人情報の問題が出てくる。
名前やメアドぐらいのものが流出することに異常なまでの拒否感を示すのだ。
名前と電話番号が流出するくらい、オレオレ詐欺の電話がかかってくるかもしれないくらいしか
実際に困ることはない。
しかし、個人情報の流出に恐怖を示す。
それはアイデンティティと深く結びついているからだ。

話はそれたけど、私的空間の拡大は「ごく私的な領域」の縮小をもたらす。
自分の私的領域が普通であることを確認したいため、または認められたいため、
他人の私的領域を知りたくなる。
私的領域の秘密を共有することが仲間である印となる。
友達なら何でも知っていて当然。何でも知っているからこそ友達と考えるようになる。
そして全てを知りたくなり、知らないことがあると落胆する。
そして「仲間」が崩壊する。

私的領域が多数の人と異なることは非常に生きずらい。
だが、私的領域を公開することがよりより人間関係を作ることではない。
それぞれがそれぞれの私的領域を認めることが重要だ。
全てを知ることが重要ではなく、認めることこそが重要なのだ。
人の全てを知ろうとすると、必ず衝突が起きる。
なぜなら私的領域を公開することは自分の存在理由を揺らがせることだからだ。
そして誰もが自分についてあまりにも無知だからだ。

こんなごく私的なことは公開できて、悩んでいる些細なことが公開できないのは不思議だ。
感情は論理的な正しさでは動かない。強い経験と記憶によって動かされている。最近本を読むペースが遅くなってきたので
今日は本を読もうと思います。
読んでない本かなり溜まってるのにまた本を買ってしまいました。
ちゃんと読も。