村上春樹という空間

先週末、村上春樹の本をかなり読んだ。土日だけで4冊ほど読んだ。それはそれなりに楽しかったが、別に書評を書くつもりはない。僕にとっての村上春樹という「空間」について書こうと思う。

なんで急に村上春樹を読みたくなったかというと、よくわからない。村上春樹を読む前にとある精神医学の本を読んでいて、村上春樹を読みたくなったことは確かだが、それ以前に村上春樹を読みたくなっていた。

決定的な要因は最近あった些細な出来事たちだと思う。僕は客観的には些細でも、主観的には非常に重大な悩みを抱えていた。それに加えて、客観的にも主観的にも些細なイヤなことが続いて、少々凹んでいた。というか、まだ凹んでたりする。そこに村上春樹という「逃げ場」を見つけたのだ。

僕は村上春樹の本をこれまで一度も読んだことはなかった。正確に言うと、避けていた。僕は小説自体あまり読まないのだが、いくつかの小説は読んでいたし、読みたいって思う本は多々あった。もちろん村上春樹も読みたいって思う本の候補ではあった。でも読まなかった。これはタイミングの問題だ。たまたま小説を読みたいって思っていた時に村上春樹のことが思い浮かばなかっただけだ。しかし、それが重なっていくと村上春樹を避けるようになった。ただタイミングが合わなかったという理由で。

そういうわけで村上春樹は避けるべき神聖な存在となった。別に村上春樹だけが特別にそういう存在ではない。音楽ではボブディランやローリングストーンズもそういう存在だ。子供の頃よく行っていて、ずっと行っていなかった近所の海辺もそういう存在。それは村上春樹の本や、ボブディランのレコードのような「モノ」ではなく、海辺のような「空間」といった方がしっくりくる。

このような空間は神聖な存在と書いたが、畏怖すべき存在というわけではない。むしろ安らぎのための空間なのだ。現実につらいことがあった時のための想像上の安らぎの空間。現実からの逃げ場なのだ。

おそらく子供の頃からこういう空間を持っていたと思うのだが、強くこの空間について意識したのはイギリスにいたときだ。イギリスでは文字通り死ぬほど勉強した。1日中勉強した。そうしなくてはついていくことすらできなかったからだ。

そういう環境では当然のように精神が病んでくる。その時、口癖のように言っていた独り言が「日本に帰りたい」だ。

当時、卒業もしなくて日本に帰ったら今以上につらい日々が待っているのは明らかだった。そして、イギリスに行く前から日本に安らぎの場所なんてないってわかっていた。でも僕は「日本」を求めた。それは現実の「日本」という場所とは違う、辛い生活から解放される想像上の「日本」という空間だ。もちろんそんな空間はどこにも存在しない。しかし、その「日本」を常に逃げ場として意識していることによって、精神の均衡を保つことができた。僕にとっての「日本」はそういう存在だった。

このような空間でもっと象徴的で、もっとわかりやすい空間がある。それは「死」だ。

僕は常日頃から「死にたい」ってよく思う。別に精神は病んでいない(と思う)し、本気で死にたいというわけではない。僕にとって「死」は現実からの「逃げ場」なのだ。全てをほっぽり出して、これまでの出来事と連続性のかけらもない何もない安らぎの空間に行く。それが僕にとっての「死ぬ」ということで、その安らぎの空間が「死」なのだ。もちろん「死」はそういう空間かどうかはわからないし、そうである確率は非常に低い。だから実際には死なない。ただ、横に「死」という安らぎの空間を意識しているだけだ。そうすることで精神の均衡を保っている。本気で自殺しようとする人は、こんな理由では死なないと思う。もっと切実な問題をもって死ぬのだと思う。だが、リストカットする人はかなり近い心情なのではないだろうか。現実を生きるために、死と隣り合わせになる状況を作り、生きていることを確認する。それが死ぬ確率は非常に低いってわかっているのにリストカットをする理由かなと思う。

実は宗教やナショナリズムも人のこういう「逃げ場」を求める精神から生まれてきたのではないかと考えることがある。自分の精神を安定させるための逃げ場。それが神であったり、国家であったりするのではないだろうか。間違っても、自分が理解できない自然災害の理由を説明するために神は生まれたとか、論理的に国家を尊ぶことが自分にとって重要だからナショナリズムが生まれたと考えるよりかはずっと自然だ。

僕にとって村上春樹もそのような逃げ場である想像上の空間だった。そしてそういう空間を消費した。そして村上春樹は既にそういう空間ではなくなった。しかし、なくなったこと自体、大きな問題ではない。また別の空間を創造すればいいだけだ。それは単なる想像上の空間だからだ。