理由ヲ希求セヨ


人生は存在論的不安との戦いだ。
本当に人に愛されているのか。
本当に明日も生きているのか。
本当に明日は来るのか。
本当に私は存在するのか。


存在論的不安に勝つ手段は2通りある。


一つはなかったことにすること。
本当に人に愛されているのか?
 ー当然だ
本当に明日も生きているのか。
 ー当然だ
本当に明日は来るのか。
 ー当然だ
本当に私は存在するのか。
 ー当然だ


全てアプリオリなものにしてしまえば
何の問題も起こらなくなる。


もう一つの手段は理由を作り出すこと。
存在論的不安を生み出す原因を「作り出す」。


なぜあの人は死んだのか。
 ーそれはね・・・
なぜあの人はそう話したのか。
 ーそれはね・・・
なぜ私は意識を持つのか。
 ーそれはね・・・


理由ヲ希求セヨ


理由を「作り出す」ことによって、
存在論的安心を「作り出す」。
その理由が真実かどうかは関係ない。
重要なのは妥当かどうか。
アポステリオリな事実には理由がある。
理由がない世界を生きるには人はあまりにも脆すぎる。
理由が存在を作り出す。


人は「まじない」によって癒される。
「まじない」は理由を説明する言語。
病気を「まじない」によって癒すことは可能だ。
いや、大半の治療は「まじない」でしかない。
病気の原因=本質を言語化することによって
存在論的安心を生み出し、人は生きる希望を持つ。


理由ヲ希求セヨ


マズロー欲求段階説なんて全て嘘だ。
根源的欲求とされる生理的欲求と同等に、
いや、それ以上に「理由への欲求」が存在する。
理由への欲求こそが真の根源的欲求だ。
そしてその理由を作り出しうる存在は
超越論的な他者でしかありえない。
超越論的な他者が理由を理由にする。


理由ヲ希求セヨ
理由ヲ希求セヨ


そして「理由を希求する」理由を希求する。