類型化の罠


理解する。
それは類型化すること。
類型化すること。
それは言語によって説明できるようにすること。


僕らは未知に出会い、それを理解しようとするとき、
2つの方法を採ることができる。


一つ。それは既存の類型に押し込めること。
そしてもう一つ。それは新しい類型を作り出すこと。


類型は経験によって、形作られる。
経験は類型を変化させる。
未知を類型にはめ込もうとするときでも、
そこには相互作用が生じる。
未知は類型を変化させる。
未知が既存の類型にうまく当てはまるとき、
その類型は強化させられる。
うまく当てはまらないとき、
その類型はダメージを受ける。
そして、その類型があまりにも大きいとき、
僕らは新しい類型を作り出す。


新しい類型を作り出すとき、
僕らには大きなストレスが生じる。
なぜなら、既存の理解の体系を破壊し、新しい理解の体系を作り出すからだ。
それは、これまでの経験の否定を含む。
それは、自己の否定を含む。


こういったストレスを避けたいとき、
いや、こういった自己否定から逃げたいとき、
僕らは新しい類型を作ることをやめる。
全ての未知なる出来事は、既存の類型に当てはめられる。
そして、既存の類型が強化され、揺るぎないものとなる。


しかし、それは新しいものを受け入れないこと。
新しいことを恐れること。
自分が否定されることを恐れること。
それが類型化の罠。
未知を既存の類型の中に当てはめ、安心感を得る。
既存の類型にどうしても当てはまらないものは、無視する。
もしくは、異常なものと見なす。


新しい類型を作り出すこと、
即ちそれは、新しい世界を作り出すこと。
なぜなら、言語の境界線が世界の境界線だからだ。
類型とは言語の境界線に他ならない。
新しい類型を作り出さないこと、
それは永遠の過去を生きること。
それは類型化の罠。