書くこと、考えること


このブログには何だかわけわからないことばっか書いているけど、僕は普通のモテリーマンなんでビジネス書とかも読んだりするんです。モテリーマンになる前は、小難しいけど刺激的な社会学書とか思想書ばっか読んでたんで、ビジネス書ってあっさいなーって思うことが多い。仕事で役に立つんで別に浅くてもいいんだけど。でも時々、浅いながらもハッとさせられるものもある。バーバラ・ミントのこの本もその一つだ。


考える技術・書く技術―問題解決力を伸ばすピラミッド原則

考える技術・書く技術―問題解決力を伸ばすピラミッド原則


この本はよくあるロジカルライティングのハシリみたいな本なので、読んだことある人も多いと思う。この本読むだけで、デキルモテリーマンになれるような気がするような本なんで、かなりお得な本です。だいぶ前に読んだ本で内容とかあんまり覚えていないし、この本に書いてあることはどうでもいいんだけど、僕がハッとしたのは、「書くことと考えることは不可分だ」という指摘だ。


刺激的な本を読んでいる時は、色々な考えが頭の中に浮かんできて、本を読む前に悩んでいた問題の解決策がパッと思い浮かぶことがある。その問題が本の内容と全く関係ないときでも、そういうことがよくある。文を書くということは、考えるという行為へ、読むときとは違った影響を与えるように思う。


ショウペンハウエルの「読書について」で近頃の人は本を読んでばかりで、書くことをしないから、みんなバカになってきているみたいなことを言っていた。僕はこの本がすごく嫌いで読んでいる途中で何回も投げ捨てたくなったけど、この主張だけは納得させられた。現代の近頃の人は本すら読まなくなっているんだろうけどね。


読書について 他二篇 (岩波文庫)

読書について 他二篇 (岩波文庫)


書くという行為は考えを誰かに伝えるという以外の意味も持ち合わせている。僕は他人になったことがないので、自分以外のことはわからないけど、何かについて考えているときは、その何かの周辺にある考えが刺激されて、頭に浮かんできて、またその頭に浮かんできた考えの周辺が頭に浮かんできてっていうのが延々と続く。すっごいわかりにくいな。例えば、Aについて考えていると、Aの意味ネットワークが刺激されてAに似ている考えや、Aと関連する考え、Aと因果関係がありそうな考えなどが浮かんでくる。それは別に意味ネットワークに限られているわけでなく、音韻ネットワークの場合もある。ダジャレとかね。つまり思考は徹底的にアナロジカルなものだ。


書くという行為は思考の拡散を抑制する効果がある。ただ頭で考えているだけの時は、前に考えていたことがすぐに消えてしまうので、最初に考えていたことと違う方向にどんどん進んでいってしまう。僕は妄想癖があるんで、もしかすると他の人よりもこういうことがよくあるのかもしれない。しかし、アウトラインを先に作ってしまえば、その範囲内でのみ思考することができるので、別の方向に考えが進むことは稀になる。逆に発想の自由度が低くなるという欠点もある。


また、書くという行為は、直前に書いたものが消えないので、一時記憶を増やすような役割を果たす。深く考えることができるのは、書くという行為を行いながらではないとできない。一時記憶が増えるということは、アナロジカルな思考にさらに強い刺激をもたらす。つまり、アウトラインを作る場合とは逆に、思考の拡散を増幅させる効果もある。書くという行為は思考の拡散と抑制の双方を可能にする。


論文を書く時とか、仕事上で長い文を書く時とかには、アウトラインを作って変な方向にいかないようにしながら書いている。でも、このブログを書いているときは(今も)、思いつくままに殴り書きをしている。誤字チェックくらいはするけど、基本的に推敲はしない。なので、考えが拡散しすぎて最初に意図していた考えとは、違う変な方向に進んでいってそのまま終わってしまうときがよくある。


つまり、このエントリで言いたかったことは、昨日書いたエントリは無茶苦茶だなーってことです。書き直すのもどうかなーって思ったんで、ここで言い訳を書いたのみのことです。これはこのエントリを書く前に考えていた結論なので、うまくこの結論にまとまってホットしました。よかったです。