否定的であること、批判的であること


あるある大辞典見て納豆たくさん買っている人と、あるある大辞典の「お詫び」をブックマークして、やっぱニセ科学だったか!とか言ってる人たちは結局同じような類の人だなあって思う。どっちも自分の信じたい方を信じているだけだよ。納豆買いまくっている人は、納豆を食べるだけで健康になれたり、ダイエットできたら「いいなあ」という願望がテレビを見て刺激されたから、納豆を買うという行動に出ただけだ。関テレの「お詫び」をブックマークして勝ち誇っているような人は、反ニセ科学であるとか、反マスメディアであるとかを「信じている」だけだ。結局どっちも自分の既存のスキーマに囚われていて、狭い範囲内でしか考えられない人たちじゃん。


科学か科学でないかという問題を一言で言い表そうとすると、「反証可能性があるかどうか」でファイナルアンサーだし*1、それ以上を求めるとすると、それこそ文字通り「メタフィジカル」な問題なんだから、決着なんてそう簡単に付くわけがない。そんなことより、現代的な問題は、なぜ多くの人は「科学的」な言説を信じてしまうのか、ということでしょ?数式を使ったり、へんな科学用語を使ったり、偉そうな教授が話しているだけで「科学的」だって思ってしまい、そのまま「科学的」なものを信じてしまう。このことが最大の問題なんじゃないの?この点については、だいぶ前に別のところで書いたから、自分の中ではとっくに解決済みなんでここで書くつもりは全くない。


それより、結局人は信じたいことを信じるんだねっていう問題について考えていきたい。メディアリテラシーの問題と深く関わっているので、とりあえずウィキペディアでも見てみよう。

メディア・リテラシー(英:media literacy)とは、情報メディアを批判的に読み解いて、必要な情報を引き出し、その真偽を見抜き、活用する能力のこと。「情報を評価・識別する能力」とも言える。ただし「情報を処理する能力」や「情報を発信する能力」をメディア・リテラシーと呼んでいる場合もある。
メディアリテラシー


その通りだとは思うんだけど。多くの人は「批判的」という言葉を間違って認識しているように思う。goo辞書によると、

ひはん 0 【批判】
(名)スル
(1)物事の可否に検討を加え、評価・判定すること。
「学説―」「―を仰ぐ」
(2)誤っている点やよくない点を指摘し、あげつらうこと。
「政府の外交方針を―する」
(3)〔哲〕〔(ドイツ) Kritik〕人間の知識や思想・行為などについて、その意味内容の成立する基礎を把握することにより、その起源・妥当性・限界などを明らかにすること。
goo辞書


メディアリテラシーの文脈で語られる「批判的」の「批判」は(1)の意味での「批判」で、(2)ではない。(2)の場合は「否定的」と読んだ方がいい。単純にマスメディアの言っていることは間違っている!って否定しているだけでは批判的だと言うわけではない。そういう人に限って、インターネットに書いている「ニセ科学はウソだ!」という言説を無批判に受け入れてしまう。結局、批判的に情報を読み取ることはせず、自分に都合のいい情報を自分の都合のいいように受け入れているだけだ。


スチュアート・ホールの「Encoding/Decoding」の論文*2で重要なことは、情報の発信側が意図する情報と、受信側が読み取る情報は、常に一致するとは限らないということだ。どう読み取るかは、受信側の社会的ヘゲモニックな状況とコンテキストに強く依存する。結局みんな社会的に獲得された「スキーマ」に囚われているだけだ。このようなスキーマから、できるだけ離れて考えることが「批判的」であることだと思う。完全に逃れることは不可能だと思うけどね。


別に僕は他人のメディアリテラシーなんて、どうでもいいんだけどね。テレビに騙されるやつは騙されればいいし、テレビをバカにしているつもりで、別の人に騙されている人はそれでもいい。他人に「批判的であれ!」なんて言うつもりはない。個人的には、そういった社会的な「構造」からできるだけ逃げて生きていきたいと考えている。


ちょっと話変わるようだけど、学者は3種類に分けられると思う。一つは有名な学者のフォロアーであり、その学者の学説を理解することだけに努める学者。二つめは、自分の信じ込んでいる学説を補完するような学説だけを一生懸命研究する学者。最後は、そこにある問題の中から、自ら新しい学説を探求する学者。それぞれ、素晴らしい学者は素晴らしいし、ダメな学者はダメなんだけど、僕は最後のタイプの探求する学者が好きだ。純粋に好みの問題なので、正しいとか間違っているとかではない。このことは学者の世界だけではなく、広く一般的に言えるんじゃないかなって思う。


自分のことをリベラルだとか、保守だとか宣言するようなタイプの人は、結局2番目の自分の学説を補完する都合のいい情報だけを集めているタイプの学者と同じだ。*3。都合の悪い情報は、無視するか、自分の都合のいいように読み替えることしかできない。たちの悪い人は、自分の考えと違う人を全てバカだと考えて、嘲笑したりする。つまり、自分の考えと同じ情報に対しては、「好意的」に受け止め(優先的読み)、違う情報に対しては「否定的」にしか受け止められない(対抗的読み)。こういう態度は「批判的」ではない。僕はこういう風に自分を縛り付けたりしたくはない。一貫性なんていらない。支離滅裂でも自由でいたいって思う。

*1:一言で言い表そうとすること自体、非科学的だが

*2:論文発表の十数年後に受けたインタビュー「Reflections upon the Encoding/Decoding Model: An Interview with Stuart Hall」も。元の論文と比べると、このインタビューはあんまり触れられることないんだけど、かなり面白かった記憶がある。

*3:もちろん全ての人がそうだとは限らないけどね。丸山貞男は明らかに違うし