普通ではない人について語ること


皆様しょうもないエントリにたくさんブックマークして頂いてありがとうございます。
しょうもないコメントばっかなんだけど、ちょっと気になったコメントがあったので、引用します。

2007年01月05日 hamasta [TrashBox] はてブユーザーは普通じゃ無いことに気づいていない人のお話。


hamastaさん、ありがとうございます*1
これから書くことはhamastaさんへの非難でもレスでもありません。hamastaさんのコメントは考えを整理するきっかけを与えてくれただけです。


では、本題。このコメントは「普通じゃない人のことを論じても意味がない」、もしくは、「普通じゃない人を論じることによって、社会を論じることはできない」ということを前提としている。
僕も高校生くらいの時はこういう風に考えていた。援交少女をおもしろおかしく取り上げて、「世も末だ」って言って喜んでいるおっさん達に、「こいつら普通じゃないんだから、普通じゃない部分だけ見て、全部を知ったつもりになってるんじゃねーよ」ってテレビに向かって突っ込んでいた。
間違ってはないんだろうけど、本当に援交少女を論じて社会を論じることはできないのだろうか。ちょっと例が悪かったかな。宮台が援交少女を通して社会を論じてたね。とにかく、一部の「普通ではない人」を論じることによって、社会全体を論じるっていう方法論は不適当なのだろうか。そんなことはない。


「普通ではない人」を論じることによって、社会を論じる方法は2種類ある。一つは「普通ではない人」が、「なぜ普通ではないと思われているのか」、「普通ではない人はどういう人なのか」を論じることによって、「普通の人」を浮き彫りにするという方法。精神科医分裂病患者を通して、社会について論じるような方法だ。


もう一つの方法論は、文字通り「普通ではない人を論じることによって、その当事者集団よりも大きな社会を論じる」という方法だ。この方法論は以下の考え方に基づいている。つまり、社会の小さな変動や、変動の兆候は、「普通ではない人」にこそ先んじて現れる、もしくは象徴的に現れる、という考えだ。このエントリもそういう考え方の基で書いている。「はてなサヨク」っていう概念を通じて、時代の気分のようなものを論じようとした*2


確かに、この二つめの方法は方法論的根拠が薄い。僕も一時期傾倒していたエスノメソドロジーは、日常世界を内側からの視点によって、厳密に記述することを目的とし、過度な一般化を避けている*3。だからといって、無意味だと決めつけることはできない。やっぱり、時代の空気のようなものは、「普通ではない人」にこそ現れている。小室哲哉よりも小山田圭吾の方が、キムタクよりも藤原ヒロシの方が、より「90年代的」だ。90年代に岡崎京子を読んでいた人は「普通の人」だったのだろうか?フィッシュマンズを聴いていた人は「普通の人」だったんだろうか?


この「普通ではない人」というのをどう捉えるかっていうのは難しい。ただの「普通ではない人」では意味がない。時代を代表する「普通ではない人」でなくてはいけない。オウムのような明らかに後世に残るような事件を起こした人たちであれば、見つけるのは容易だ。でも、そうでなければ重要な「普通ではない人」を発見することは難しい。重要かはどうかは歴史が証明するしかない。

*1:ちなみに、はてブユーザーについては一言も論じていませんよ

*2:誤読しているんだか、わざと誤読してオレは頭がいいって言いたいんだかわかんない人が大量に現れましたけど

*3:はてなキーワードエスノメソドロジーはすごい詳しいですね