音楽を語ることの不可能性について


タワレコ渋谷店のカツオ氏に乗せられて、タワレコに貢ぎまくっているcoochooです。こんにちわ。タワレコのポイントカード満杯になりました。次回は3000円引きで買ってやります。


カツオ氏はすごい。ナイスチョイスすぎる。「カツオ大プッシュ」って書いているのを見ただけで買いたくなってしまう。カツオ氏はCDのチョイスが一番すごいんだけど、POPに書いてある文もうまい。そしてそれに騙されてCDを買ってしまう。
若い頃*1、ずっとREMIXっていう雑誌を買っていた。創刊して間もない頃から買っていた。REMIXもチョイスがナイスなんだけど、ライター陣のレビューもうまい。全然お金なくて、CDもレコードも買えないし、クラブなんて行けなかったのに、レビュー見たさにずっとREMIXを買っていた。


僕はどうしてもうまく音楽を言い表すことができない。「かっこいい」とか、「気持ちいい」とか、「すげー好き」とか、「僕は死にません」とか、「仕事と私どっちが大事なの」とか、「やっぱり猫が好き」みたいな抽象的な批評になりえない言葉でしか表すことができない。それ以外の言葉で表そうとすると何か嘘くさくなる。


よく考えたらREMIXもイギリスのブリストル出身の3人組とか、通算4枚目のアルバムとか、音楽の周辺的な情報については饒舌に語っていたけど、音楽それ自体についてはあまり語っていなかったかもしれない。歴史とか人物評とか。制作秘話みたいなこととか。インタビュー記事もそんなことばっかだったかもしれない。まだ発刊しているので過去形はおかしいかな。最近買ってないんで、過去形になってしまいました。


そういえば学校の音楽の授業でもベートーベンの生まれ故郷とか、目が見えなくなったエピソードとか、そんなくだらないことばっか習わされた。音楽教師曰く、作品を理解するには作曲家の人となりを知らなくてはいけないそうだ。哲学者の思想を理解するには、その哲学者の人物像を知らなくちゃいけないっていうならわかるけど、音楽はそういうものじゃないでしょ。音楽は理解するものじゃない、感じるものだ。この教師バカだなって思ってた。ちなみに、その新任女性音楽教師とはその後いろいろあったんだけど、それは別の話*2


話がそれました。そもそも音楽それ自体を批評的な言葉で語ることができるのだろうか。「気持ちいい」とか「かっこいい」ではなくて、書評をする時のような言説で音楽を語ることはできるのだろうか。


たぶんできるんだろうけど、僕にはできない*3。なんでかっていうのを「気持ちいい」と「かっこいい」っていう2つの言葉から考えていきたいと思う。というのも、僕だけかもしれないけど、音楽を聴いて素直に感じる(肯定的な)感情は「気持ちいい」と「かっこいい」の2つしかないからだ。それ以外の感情はどれも「気持ちいい」か「かっこいい」の派生形でしかない。この2つの感情が音楽を「語りえぬもの」にしてるんじゃないかって思う。


「気持ちいい」という言葉は文字通り身体的な快楽を表す表現だ。おそらく生得的に獲得した感覚が大きなウェイトを占めている。ビートが一定じゃないと気持ち悪いとか、C-E-Gの和音は気持ちいいけど、C-D-Eは気持ち悪いとか。ガラスを擦った音は気持ち悪いとか。1/fゆらぎは気持ちいいとか(ウソくさいけど)。もちろん、音だけではなくて、リリックにも快楽が存在する。
あと、ちょっと思ったんだけど、プライミング効果による快楽っていうのも存在すると思う。プライミング効果っていうのは、一度見たものは思い出しやすくなるみたいな感じのことを指します。例えば、トイレの写真見せた後で、「○○こ」の○○に当てはまる、ひらがなは何だ?って聞いたら、へそ曲がりな人以外は大抵同じものを想像するだろう*4
このプライミング効果ってそれ自体快楽を生むんじゃないのかな。結構大胆な仮説だけど。慣れ親しんだ音楽を聴くことの快楽と初めての音楽を聴くときの快楽は違う。どっちが大きい快楽かはわかんないけど、異なった種類の快楽だ。慣れ親しんだ音楽はイントロを聴いただけで、次にどんな音が続いてくるのかすぐに思い出す。そして予想通り曲が進行する。この予定調和が大きな快楽を生み出しているように思う。ライブなどで、予定調和が崩れるときも、予定調和が崩れるっていう快楽を生み出す。
他にも色々あるんだろうけど、とにかく「気持ちいい」という感情は個人的、身体的な快楽を表す感情だ。


「気持ちいい」という言葉が個人的な身体的快楽を表す表現だとすると、「かっこいい」という言葉は極めて社会的な快楽を表す言葉だ*5。「JAY-Zを聴いているオレかっこいい」とか「エロかっこいいあたし、かっこいい」とかそういう見栄的な快楽もそうだけど、それ以外の快楽も存在する。つまり、「間主観的なかっこよさ」というか、「社会的に構築されたかっこよさ」というような、社会集団内にのみ存在する価値観に適合する「かっこよさ」を満たすという快楽も存在する。例えば、ミニマルテクノがかっこいいって思う集団もあるだろうし、デスメタルがかっこいいって思う集団もあるだろう。最近はあまりにも価値観が細分化してしまって、時代的なかっこよさっていうのはもうなくなったのかもしれない。
間主観的なかっこよさを満たすという感覚は大きな快楽を生み出すように思う。なんかいい例ないかな?かっこいい家具を見たときとか、かっこいい建築を見たときとか。わかりにくいかな。とにかく、社会的にかっこいいとされるものを見聞きするという感覚は大きな快楽だ。


つまり、素晴らしい音楽を聴いて現前する感覚は身体的な快楽と社会的な快楽の2種類の快楽だ。もちろん、この2つの快楽は別々に存在しているわけでも、明確に区別できるわけでもない。色々クロスオーバーしながら現れてくる。


この快楽はフロイト的な「快/不快」の二元論的な快感原則に支配されている。音楽は現実原則を吹き飛ばす。「快/不快」のみの単純な地平に連れて行く。この地平は西欧的な理性、すなわち論理を超えたものだ。論理を超えたものを論理で記すことはできない。この快楽を記すことができるのは、精神分析的な言説か比喩だけだ。


でも、音楽を精神分析的な言葉で語るのってかっこ悪いし、うざったいよね。「ボブ・マーリー対象aだ」ってうぜーー。なので、これから僕は音楽を比喩で語りたいと思います。「ボブ・マーリーは夜露を浴びた子羊が泣いているような音ですね。」

*1:まだ若いですよ

*2:ムフフなことじゃないよ!

*3:音楽の種類によっては、語ることができるものもあるかもしれない。

*4:例は直接プライミング効果。間接もあります。

*5:もちろん個人の形成は社会とは切り離せないので、「気持ちいい」も本能的な部分を除けば社会的と言えば社会的だが