カズオイシグロと普通



カズオ イシグロ
わたしを離さないで

昨日の「ぎゃふん」は予想外にショックが小さい。むしろすっきりした気がする。このことはいずれ書こうと思う。ということで、ずっとFF3をやっているのだが、その合間を縫ってカズオイシグロの「わたしを離さないで」を読んでいる。

まだ読み終わってないし、読み終わっても書評を書くつもりはない。だけど、この小説を読んでいたら、僕が普段気にしていたけど、はっきりしてないことが少しはっきりしてきたような気がする。それは僕が「普通」を異常に気にするっていうことだ。

心理学で有名な実験がある。被験者に何人かの友人に対して、その人はどのような人か形容してもらう。彼は他人について何かを話している。しかし、本当は自分についての何かを話しているのだ。原理はこうだ。ほとんどの人は絶対的なモノサシで何かを語ることは出来ない。それが人についてなら、なおさらである。他人を評価するときは何らかの基準が必要になる。その基準となるものは自己以外ありえない。人が他人を評価するとき、自己を基準にして他人を評価している。つまり、他人について何か話していることは、自己についても話しているのだ。

僕が友人について何か話すときには、「普通」とか「変わっている」とかいう言葉が多く出る。それは僕が「普通」を異常に気にしているからだ。もっとはっきり言うと、「普通」であることを非常に恐れているのだ。

僕らの世代はみんなそうだと思うのだが、僕は個性的であることを半ば強制されてきた。個性的であることが、「かっこいい」こととされ、平凡であることは「ダサイ」こととされてきた。僕は多くの人以上にこのことを気にしてきたんだと思う。個性的であること、人と違うこと、「普通」ではないことを常に意識して生きてきた。

しかし、どんなに頑張ったところで所詮僕は「普通」でしかなかった。勉強もスポーツも何でも「普通」という枠を超えられなかった。大学4年になっても就職活動しなかったり、卒業してからイギリスに行ったりしたのも、「普通」から逃げるためと無関係ではなかったのだろうと、今では思う。しかし、それでも「普通」からは逃げられなかった。高校は中の上くらい。大学は僕の行ってた高校のレベルからすると、かなり頑張った方だったが、世間では中の上くらいの大学。人と違うことを望んでイギリスに行っても、帰ってきてからは結局普通のサラリーマンになった。

以前のエントリーで僕は「分裂病に興味がある」と書いた。その時、僕は分裂病親和的な人格だから興味があると書いたが、他にも理由があるようだ。それは「異常」に対する畏怖というか、憧れのような感情があるからだと思う。所詮「普通」でしかない僕は「異常」である分裂病に対して強い憧れを抱いているのだと思う。

自分でもわからないが、もしかするとこれは逆説的なことではないのかと思うことがある。つまり、表面的では「普通」であることを恐れて、他人と違うことをしようとしているのだが、もっと深い部分では逆に、「普通」であることを欲していて、どんなに突飛なことをしても「普通」でしかありえないことに安心しているのではないか、ということだ。僕は「普通」と思われたいがために、「異常」になろうとしているのかもしれない。

というのも、子供のころは「普通」であることに固執していたという記憶があるのだ。多くの子供と同様、僕も友達とかに「ばーか」とか言い合っていた。その時はバカと言われたら、「バカじゃないです。普通です。」と答えていたと思う。冗談でも、「天才」とか「秀才」と呼ばれることにも拒絶反応を示していた。

ま、過去の記憶なんてものは、現在の自分というフィルターを通して再構築されるのもなので、信用できるものではないのだが。でも、そういったことを覚えているってことは、少なくとも現在、そういったことを気にしているっていうことだろう。

カズオイシグロの「わたしを離さないで」は、普通ではなく「特別」な人の話だ(まだ全部読んでいないので不確かだが)。カズオイシグロ本人も日系イギリス人としてノマド的なアイデンティティの不確かさを持っているのだと思う。僕は逆にどんなに頑張っても普通以上になれない存在だ。それはそれで十分苦痛なことだ。