「東京から考える」を東京で考える


タイトルはテキトーです。
2週間前くらいに書こうと思っていたけど、なんだかんだ色々あって精神的に忙しくて書けなかった。ま、いいわけですけど。
もう結構内容忘れちゃったんだけど、思い出しつつ書きます。
東浩紀北田暁大の「東京から考える」についてです。

東京から考える 格差・郊外・ナショナリズム (NHKブックス)

東京から考える 格差・郊外・ナショナリズム (NHKブックス)


この本の関心と僕の関心は驚くほど近い。僕のディザテーションの内容は「都市の表象分析」だった。この本がやろうとしていることは、まさしく僕が取り組んできたことだ。一時期、僕の興味は空間から遠ざかっていたけど、最近また復活しつつある。このブログで急に写真が増えたことも空間への興味再燃が少なからず影響している*1。ただ、最近の僕の関心は空間の「表象=representation」ではなく、表象の奥に隠れているいわば「深層」の方にある。この点はディザテーションで少しやろうとして、全く出来なかった点でもある。ポストモダンの虚飾に隠された都市空間の本質を現象学的な視点から見ていこうというのが最近の関心だ。


ま、この本とは関係ないのだが。この「東京から考える」という本はアマゾンの書評でもたくさん書かれているように、印象論の自分語りに終始している。だが、学術論文ではなく対談という形式から考えると、この点はそう批判に当たる点ではないだろうと思う。社会学的な調査は欠けているが、それでも示唆に富んだ内容ではある。だが、後述するように問題は印象論だという点ではなく、その印象が怪しい*2という点だ。まずは、この本で興味深かった指摘から挙げよう。


特に興味深かったのが、東京の都心まで「郊外化=国道16号化=ジャスコ化」が進んでいるという指摘だ。僕も郊外化の全国化には注目していて、特に地方都市のジャスコ化には深い関心を抱いていた。地方都市でのジャスコの影響力は本当に凄いものがある。ここ数年はよく地方都市に旅行に行っていたのだが、どの地域でもジャスコ的なものの影響が目に見えて出ている。だが、都心に住んでいながら、「都心の郊外化」には気がつかなかった。郊外化と東の「動物化」との結び付け方も非常に興味深い。この点については既に実地調査(?)を行ってきたので、近いうちにこのブログにアップしたいと思う。


もう一つ面白かったのが、東が中学時代に住んでいたという青葉台についての指摘だ。北田も言っていたのだが、僕もニュータウンでは管理が進んで「スキマ」が無くなり、子供は精神的に追いつめられるという(宮台的な)指摘は間違っていると考えていた。というのも、子供はどんな場所でも「スキマ」を見つけるものだからだ。僕自身は郊外の住宅街に住んでいたわけではないけど、住宅街のすぐそばに住んでいて、よく住宅街の子たちと遊んでいた。その遊び場となったのが、このスキマだ。多くの住宅街には「裏の入り口」とでも呼べるような、車も通れない旧道があった。旧地主の人だと思われる人の昔ながらの家や、場違いな畑があった。僕の住んでいた地域は比較的早くから開発が進み、乱開発による「スプロール化」が激しく起こった地域なので、ニュータウンとは少し状況が違うかもしれない。だが、実際に調査した住宅地は、どの地域にも全て「スキマ」があった。しかし、東は青葉台にはスキマが無いと言う。なんだかんだ言って東はイイトコ出のオボッチャマだから、スキマを見つける能力が無かったのかもしれないが、東が言うような青葉台の特殊性を考えると、本当にスキマがないのかもしれないという気になってくる。この点の真偽はわからないが、本当だとしたら非常に興味深い例だ。


ここまでは褒めたけど、ここからは批判的な内容になる。まず、この本は印象論だということを差し引いても、明らかに不十分な点が多い。例えば、渋谷について語っている章では「音楽」についての言及が全くない。「ファッション」についての言及もほとんどない。90年代以降の渋谷という空間を語る上で「音楽」と「ファッション」について言及しないのは考えられない。秋葉原について語るときに「アニメ」と「コンピューター」について言及しないのと同じようなものだ「渋谷系」と言われる音楽は言うまでもなく、世界最大のレコード屋街としての渋谷、さらにファッションや文化に対する音楽の影響*3など、渋谷と音楽を結びつけるものは数え切れないほどある。東が通過してきたサブカルチャーの中には音楽がなかったのだろう。東は他の本でも音楽についての言及があまりにもない。あったとしてもクラシックとか、多くの若者文化からかけ離れたものばかりだ。「ファッション」という観点から見ると、「渋谷」、「原宿」、「代官山」のある意味共犯的な関係は非常に重要だ。90年代、2000年代はファッションの中心地がこの狭い3つのエリアで目まぐるしく移り変わってきた。個人の経験には限界があるから、しょうがない部分ではあるが、渋谷を語る上で「音楽」と「ファッション」を無視することはできないはずだ。


この本で対象としている地域にも偏りが大きい。ま、しょうがない所でもあるんだけど。ただ、「商業地」、「住宅地」について語っているのに、なぜ「オフィス街」について全く言及がないのかは理解できない。東京のオフィス街は日本では東京にしかないある意味異質な空間である。さらにグローバル化が最も進んでいる空間でもあり、近年移り変わりの激しい空間でもある。東京の「都心」は江戸時代から「都心」として活動してきた。この歴史性も東京という空間を考える上で欠かせない点である。東京のオフィス街を無視するということは東京の核を無視するということに等しい。


もう一つ、非常に面白いが、決定的に間違っている指摘があった。ネットでも話題となった朝日新聞による足立区の小学生で援助を受けている児童が4割を超えるという話題についてである*4。東・北田は足立区の住民が「こんなに貧しい人が多いとは聞いたことがない」と役所などに問い合わせをしたと指摘し、空間に社会が表象されなくなってきており、空間の物語分析は無意味になっていると主張する。この点は僕の分析と大きく違う。この点は空間に社会が表象されなくなってきているのではなく、住民が空間を見なくなっているのだ。つまり「空間の分裂(Spatial Division)」が進行しているのだ。特徴的な点は空間のカプセル化である。この本でも挙げられていた恵比寿ガーデンプレイスへと続くスカイウォークもその一例だ。もっとわかりやすい例は「ゆりかもめ」である。ゆりかもめは新橋からレインボーブリッジを渡り、テーマパーク的なポストモダン空間であるお台場まで繋ぐモノレールである。ゆりかもめに乗り、お台場へと渡る乗客はレインボーブリッジやフジテレビ、観覧車などの煌びやかなポストモダニズム建築に目を奪われてしまう。ゆりかもめには、お台場というテーマパークへの期待感を高める役割を担っている。だが、実際にゆりかもめが通っているエリアは日本有数の港湾工業エリアの一部であり、倉庫や化学工場が建ち並ぶモダンの泥臭い物語が結集されているエリアでもある。多くの乗客はこの事実に気付かない。ポストモダンの魅力に完全に誘惑される。気付いた乗客も、ゆりかもめから見ると、このエリアすらテーマパークに見えてくる。彼らは完全に「ゆりかもめ」という想像界のカプセルに守られて、現実界から遠ざかっている*5


足立区も同じ問題を抱えている。郊外化とカプセル化は高い相関関係にある。つまり、車がカプセルの役割を果たす。そして、自宅と駅周辺、自宅とジャスコ周辺以外は見えなくなる。貧しいエリアは実際に車でも通らないことが多いが、仮に通ったとしても車の優れたカプセルは異質な空間だということを認知させない。彼らにとっては「存在しない」空間になるのだ。おそらく都心で郊外化が進むと、この「空間の分裂」の問題は地方よりも大きくなるだろう。というのも、地方や郊外では車を持つことが普通だが、都心では車を持つことはある意味特権だからだ。まず、交通網が発達しているため、普通に生活するぶんには車は必要ない。そして、家賃、駐車場代が高すぎる。かなり経済的に余裕がないと都心で車生活を送ることは難しい。足立区は都心かどうかは微妙だが、千葉や埼玉の郊外都市や、地方都市よりも「空間の分裂」の影響は大きいだろう。


長くなっちゃったな。あとは最初に書いたように、表象分析では見えないこともあるので、深層を見ることをしなくては本質が見えないとか色々言いたいことはある。「都心の郊外化」と「空間の分裂」について調査したので、簡単な分析をして近いうちにアップします。期待はしないでください。


書評のフリして自分の主張を書こうと思ってたんだけど、結構書評っぽくなったな。ま、どうでもいいけどね。

*1:でも大部分は新しいデジカメ買ったからなんだけど

*2:少なくとも僕の「印象」とは違う

*3:特にHIPHOPの影響

*4:この報道の真偽は怪しいのだが、仮に正しいとして考える。

*5:現実界は常に見えないものだ