時間の揺らいだ街


アンリ・ルフェーブルが言うように、空間は社会的に生産される。空間は、ただそこにあるものではなく、社会活動によって生産されるものだ。
そして空間には物語が描かれている。物語は単一ではない。いくつか異質な物語が同一の物理的空間の中に併存している。フーコーの言うような、ヘテロトピアが現代の空間の基本的な空間だ。もちろん、物語もまた社会活動によって生産される。



ここにはどんな物語が流れているのだろうか。江戸時代の栄光という物語なのか?異質性を消費させ、お金を落とさせるだけの観光の物語だろうか。



ここに物理的な空間が生産されたとき、それはまぎれもなく都市、宿場の空間だった。そこにはもちろん都市の物語が流れていた。多くの観光地は過去、または歴史を再現しただけのシミュラークルだが、ここは違う。ここは、生産された当初から大きく姿を変えていない。もちろん、修復や改修などは行ってはいるが、それは本質的な変化を伴わない。伊勢神宮が20年に一回建て替えられても、伊勢神宮であり続けることと同じだ。


物理的な空間は普遍でも、時間と空間の文脈が変われば物語は変容する。ここは中途半端に近代化し損ねた空間だ。そういう意味ではピュアなヘテロトピアだ。東京からの距離が中途半端に離れていたため、近代化の過程で東京化できなかった。過去にある程度栄えていたため、工場地域にもなれなかった。そして、通勤エリアからも外れていたため、郊外化することにも失敗した。最後の手段として、過去の栄光を資源として、観光地化に走ってはいるが、資産としてはインパクトが弱い。ここには、観光地の消費文化物語と、過去の栄光を懐かしむノスタルジーの物語と、今を普通に生きる生活の物語が併存している。どれも支配的な物語はない。空間をどの角度から見るかによって、異なる物語が姿を現す。ここは異なる時間が共存しているのだ。しかも不完全に。現代になったり、過去になったり、空想の時間になったりする。ここは時間が揺らいでいる空間なのだ。



だが、取り残された空間から一歩外に出ると、支配的な大きな物語が登場する。大きな物語は消滅したと言うことは簡単だが、実際には消えてはいない。過去に比べると大きな物語の支配力が弱くなっただけだ。小さな物語の政治力が弱い空間では、大きな物語が未だに支配を続けている。だが、ここは大きな物語が失敗した空間だ。大きな物語が失敗したとき、そこは廃墟になる。一部の観光地化に励んでいる空間と、住宅地を除けば、ここは廃れ寂れた地域でしかない。大きな物語は残酷だ。それは創造的破壊であり、破壊的創造でもある。合理化のため全てを破壊し尽くす。しかし、大きな物語が失敗したとき、そこに残るのは燃えかすしかない。だが、小さな物語の集合が大きな物語より、残酷ではないという保証は一切ない。


「ここ」の具体的な地名は挙げない。「ここ」はどこでもなく、どこにでもある空間だから。