パラノ化するWEB


WEBは本質的にスキゾなものだと、僕は思っている。WEBはこれまで不可能だった全く新しいビジネスを作り上げた。WEBはこれまで築き上げた社会ネットワークを無視して、完全に匿名の社会関係を築き上げることを可能にした。WEBは自閉症気味で、これまでまともにコミュニケーションを取れなかった人がヒーローになることを可能にした。WEBは理想をひた走ってきた。これらは全てスキゾ的な行為だ。そしてWEBの世界を引っ張ってきた主要なアクターは全てスキゾ的な人物だ。


WEBは中井久夫風に言うと、「世直し路線」であり、木村敏風に言うと、「アンテフェストゥム(祭りの前)」であり、R.D.レイン風に言うと、「ひき裂かれた自己」であり、ブランケンブルク風に言うと、「自明性の喪失」だ。WEB2.0の理想論はまさしくこの世界だった。


しかし、このようなスキゾなWEBの時代は、WEB2.0の一般化と共に終わりを迎えようとしている。スキゾの終焉を迎えたWEBはパラノイアと化する。


パラノ化したWEBは「立て直し路線」であり、「ポストフェストゥム(後の祭り)」だ。既にWEB1.0のパラノ的な大企業がWEB2.0と呼ばれる事業に続々と参入している。そしてこれまでスキゾ的だったネットベンチャーが巨大化し、パラノ的な大企業になってきている。


そもそもWEB1.0はWEBではなかった。WEB2.0が生まれて誕生したWEB1.0はWEBの世界とは違う世界が、間違ってWEBの世界に入ってしまって生まれたものだ。WEBの始まりはWEB2.0的なものだった。そこに大資本とバブルに乗ったアントレプレナーがビジネスチャンスと見て、WEB以外の世界の論理を持ち込み、WEB1.0を作り上げた。WEBは初めからWEB2.0であった。そして、これからもWEB2.0でしかない。


一つ違うのは、これからのWEB2.0は、これまでのWEB2.0と本質的に同じということだ。そこには新しい世の中はない。そこは「世直し」ではなく、「立て直し」であり、「理想の未来を夢見る」のではなく、「栄光の過去を思い出す」だけだ。そして、永遠と同じようなビジネスを生み続ける。ひたすらと。毎年、畑を耕す農家のように。そこには、禍々しい森へ狩猟に行く人たちは存在しない。終わり無きWEB2.0。全てがネットワークになったとき、そこには絶えず生まれ変わっているが、外から見るとまるで変わっていない、均衡状態のネットワークになる。それがWEBの終わりであり、それはもうすぐそこにいる。