監視と偶有性と偶有性の限界


はてな界隈で人気の東浩紀の監視論・自由論についてです。
彼は大澤真幸との共著「自由を考える」で、近代の「規律訓練型」の監視から、現代は「環境訓練型」の監視になっていると述べている。
ここも参照:
http://www.glocom.ac.jp/j/publications/journal_archive/2005/09/9.html


自由を考える―9・11以降の現代思想 (NHKブックス)

自由を考える―9・11以降の現代思想 (NHKブックス)


この環境訓練型の監視に批評で対抗することは難しい。政府が力を持っているのではないので、従来の左翼的な言説は無意味になる。そして、監視カメラみたいなものは、犯罪抑制という立派な大義名分があるため、批判しようとしても、「じゃ、犯罪が起こってもいいのか」と言われれば黙るしかない。


この閉塞感を打ち破るために東は「偶有性」「匿名性」を挙げている。つまり、「私以外のだれかだったかもしれない私」が守られてこそ、自由であると言うことだ。


ま、これまでは別にいいんだけど*1
ここからが本題。


どこかで見たけど、忘れちゃったテレビ番組で、犯罪が多い通路でクラシック音楽を流したら犯罪が激減した、みたいなことを言っていた。
そういえばこんなニュースもあった(ソースは怪しいが)

防犯意識の高まりにつれて、青色の犯罪抑止効果に注目が高まってきています。 イギリス北部の都市グラスゴー中心部のブキャナン通りというショッピングストリートで、景観改善を目的にオレンジ色の街灯を青色に変えたところ、犯罪が激減するという現象が起きました。原因を調べたところ、青色の街灯によって犯罪が減少したということがわかり、犯罪抑止を目的に青色の街灯が利用されるようになりました。

 このことがテレビで取り上げられ(日本テレビ系、まさかのミステリー、2005年5月6日)、日本では奈良県警察本部が最初に青色防犯灯を採用し、すでに犯罪が顕著に減少するという効果が出ており、広島県沖縄県静岡県群馬県、愛知県、福島県など少なくとも17都道府県で使用されるようになっています。ここ最近は急激に増えてきているようです。 新聞やテレビのニュースでもたびたび報道されて、さらに関心が高まってきています。

http://www.blue-diet.com/hanzai.html


街灯を青くしたら、犯罪が減りました。めでたしめでたし。って話。


クラシック音楽を流すとか、街灯を青くするとかって、明らかに環境規律型の監視だ。しかも、無意識に働きかけるものだから、余計にタチが悪い。悪く言えば洗脳でしかない。


でも、こういった監視では「偶有性」は確保されているような気がする。つまり、青光の下にいたって、「匿名の私、私じゃなかったかもしれない私」は存在する。このような監視に対して、偶有性を確保させろ!って言ったところで無意味だ。


じゃ、どうすればいいのか。それとも、別にこれは問題ないのか。別に青い街灯があったって、何とも思わないからいいのか。でも、洗脳されていると言えばされているし。何とも思わないからいいって言うのなら、監視カメラにも何とも思わない人も多いわけで。


偶有性は非常に重要な概念だけど、もっと本質的な概念で批判しなくちゃ、いけないんじゃないかなって思う。じゃ、どうすればいいのか、って言われても何にもできないんだけど。


すごい浅はかな意見を言わせてもらえば、「無意識の自由」みたいな概念が必要なんだと思う。近代の自由は「理性の自由」だった。理性の自由は重要なんだけど、もっと潜在的な意識の自由も重要なんじゃないのかなって思う。

*1:個人的には「匿名の他者」、「親密な他者」、「超越論的な他者」と「自我」の関係とかに興味があるんだけど。それは別の話。