中心のない存在

最近すごい勢いで本を読んでいる。元々常に読書はしているんだけど、ここ3週間ほどは何かに取り憑かれたように本を読んでいる。


前に興味が散漫で困るみたいなことを書いたけど、それはそれで変わって無くて、あっち行ったりこっち行ったりしている。でも、何とか一つの方向に収斂させるようになってきた。
その方向は記号論的なモノへの方向だ。
あ、こんなこと書くつもりじゃなかった。記号論的なものの話はまた今度書くとして、今日は別のことを書く。


僕が興味が散漫なのは、コレといった核というか、人生の意味というか、人生の中心というか、夢というか、そういった人生を貫く上での「中心」となるようなものが全くない。子供の頃からずっとない。非常に冷めた子供だったのかもしれない。こんな大きなことじゃなくても、特別好きな食べ物とか、絶対に食べられない食べ物とかもない。好きなミュージシャンのCDとか、好きな作家の本とかもコンプリートすることは絶対にない。コンプリートする前に興味が他に移ってしまう(また再発したりするのだが)。「広く浅い」っていうのもちょっと違うような気がする。音楽でもかなりマニアックなものばっか聞くし、本とかもかなりディープなものを読んだりする。あと、一応、文系で修士号を持ってたりする。ある程度、深い知識が欲しかったから、無意味なマスターなんか取ったんだと思う。ま、基本的に全て中途半端だ。別に、それが悪いとは全く思っていない。こういうのもアリかなって思う。


中沢新一のアースダイバーでもちょっと出てたけど、ロラン・バルトが東京は、中心(つまり皇居周辺)が無であることを指摘している*1。そういう意味で僕はすごい東京的だ。ちょっとかっこいい言い方をすると、エクリチュールとしての僕には意味がない。僕についての伝記とか書いても何の教訓も引き出せないだろう。こうやって書くと、なんかすごい悲観的に見えるけど、別にまったく絶望していない。死に至る病じゃないです。こういうのもアリかなって思う。こういう中心性の無さ、意味の喪失が良かったりする。


パラノイアックに一つのことを追い求める人は強い。でも、中心がない「軽さ」もいいんじゃないのかなって思ったり思わなかったり。

*1:ロランバルト 「表徴の帝国」