モンゴルという想像上の空間について


変なタイトルに変更したまま、全然更新してなかったです。タイトルはこのままでいっか。そして、久しぶりに更新したかと思ったら、朝青龍の下世話なお話についてです。そんなのもたまにはいいかなって。


今日の日経の社説
朝青龍関の帰国容認を
http://www.nikkei.co.jp/news/shasetsu/20070822AS1K2200222082007.html


日経でもこんなくだらないこと書くんだね。別にメディア批判をしたいわけじゃないんだけど。この問題についてはメディアのひどい対応について思うことも色々あるけど、別にどうでもいいや。最初は朝青龍とか親方をバッシングしてたのに、診断書出されたら急に帰らせろみたいな。精神科医の診断がどういうものか全くわかってないけど、どうでもいいや。


そんなくだらないことは、どうでもよくて。今日の日経の社説読んで、朝青龍にとってのモンゴルという空間について、ちょっと思うところがあった。彼にとってモンゴルという空間は以前、下のエントリで僕が書いた「想像上の逃げ場」になってるのではないかなって思った。

http://d.hatena.ne.jp/coochoo/20060821/1156086000


ちょっと引用

当時、卒業もしなくて日本に帰ったら今以上につらい日々が待っているのは明らかだった。そして、イギリスに行く前から日本に安らぎの場所なんてないってわかっていた。でも僕は「日本」を求めた。それは現実の「日本」という場所とは違う、辛い生活から解放される想像上の「日本」という空間だ。もちろんそんな空間はどこにも存在しない。しかし、その「日本」を常に逃げ場として意識していることによって、精神の均衡を保つことができた。僕にとっての「日本」はそういう存在だった。


イギリスにいた時、ずっと日本に帰りたいって思ってた。だけど、本当に日本に帰りたいというわけではなくて、日本というユートピアに脱出したいと考えていただけだ。当時、本当に日本に帰っていたとしても、精神上、全くいい影響はなかったと思う。ただ「日本」というユートピアを側に持っていたからこそ、イギリスでなんとかやっていくことができた。


だからと言って朝青龍はモンゴルに帰すべきではない、と言いたいわけではないですよ。そこはケースバイケースなんで。別に朝青龍について詳しく知っているわけではないので、彼について話すことなんかできるわけがない。


「空間」は「他者」同様、人のアイデンティティの形成に深く関わると僕は考えている。そして、社会的な空間とは本質的に想像上のものだ。実際の物理的な空間(=場)は社会活動が行われる上での「舞台」となる。舞台そのものには全く価値がない。新宿コマ劇場で演劇をやろうが、下北沢の小さな劇場でやろうが、演劇の本質には変わりがないことと同じだ。しかし、舞台で行われた社会活動は、人の頭の中で、舞台と共に空間の記憶として刻まれる。社会集団の間主観的な行為の中で再構成された空間こそが社会的な空間である。アンリ・ルフェーブルが言うように、空間は社会的に生産されるのだ。


現代の都市空間は非常に揮発的になっている。多くの建築が立てられは消え、空間の表象は常に変動を余儀なくされている。さらに、人々はますますノマド的な流動性を獲得している。これまで空間によって形成されていた部分のアイデンティティは崩壊の危機に瀕している。


このアイデンティティ崩壊の危機に対する反応は二通りある。一つは空間以外によって形成されるアイデンティティの関係を強化する。主に他者との関係によって形成される部分となる。空間によるアイデンティティの形成よりも、他者との繋がりによって形成されるアイデンティティの方があるかに重大である。これがうまくできる人にとっては、大きな問題とならない。


もう一つは別の空間を追い求めること。ネット上のヴァーチャルな空間や、歴史上のナショナリスティックな空間、想像上の空間を探し出す。そうなると、必然的に空間の解釈を巡る政治的な争いが発生する。


朝青龍にとって「部屋」はフロントスペース(ハレの場)であって、安らぎを与えるようなバックスペースにはなってなかったんだろうと思う。モンゴル出身の彼にとって、日本人と深い関係を築くのは難しい。それで「モンゴル」というユートピアを追い求めたのだろう。


ストレス過多によって、想像上の空間を追い求めるという、朝青龍とモンゴルの問題は在日外国人に限った問題ではない。地方出身者の都心居住者だけでもない。東京で生まれて東京で育った人にも起こりうる。こういうことは今後もっと増えてくるんだろうな。


マスメディアが騒いでるのはこういうことじゃないってことは百も承知です。